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セントポール(Saint Paul)は、アメリカ合衆国ミネソタ州東部に位置する都市。同州の州都であり、ミネアポリスに次ぐ州第2の都市である。人口は285,068人(2010年国勢調査)〔American FactFinder . U.S. Census Bureau. 2011年2月4日.〕。市名は1841年に建てられたセントポール大聖堂に由来している。このセントポールと西に隣接するミネアポリスとをあわせて''Twin Cities''(双子の都市)とよく呼ばれる。「双子の都市」は、ミネアポリスが州の経済・文化の中心で地方の中枢都市であるのに対し、セントポールはミネソタ州会議事堂や州の各種機関が集まる州の政治の中心地であり、役割を分担している。この「双子の都市」および近隣のブルーミントン、セントクラウドなどを含んだミネアポリス・セントポール都市圏は約360万人の人口を抱える〔。 == 歴史 == 2,000年ほど前、この一帯には古代のネイティブ・アメリカンによるホープウェル文化(:en:Hopewell tradition|en]])が花開いていた。彼らが土葬を行った塚は、現在ではインディアン・マウンド・パークとして残っている。その後、1600年頃から1837年にかけてこの地に住み着いていたダコタ族はその塚の近くに住居を構え、土葬を行うのにその塚を用いた〔Trimble, Steve. A SHORT HISTORY OF INDIAN MOUNDS PARK . ''Neighborhood Pride Celebration''. daytonsbluff.org. 2000年7月2日.〕〔Indian Mounds Park . ''Mississippi National River and recreation Area''. National Park Service.〕。19世紀初頭、毛皮取引商人、探検家、宣教師などのグループがスネリング砦の守りとしてこの地にやってきた。彼ら初期の移民の多くはカナダから南下してきたフランス系であった。 初期の入植者はミシシッピ川とミネソタ川の合流点近くに建つ砦の近くに住んでいた。やがてウイスキーの取引が盛んになってくると、それまで砦の守りについていた軍人をあまり快く思っていなかったピエール・パラント(en)によって、軍人は砦の管轄下にあった土地から追い出された。ピエール・パラントは毛皮商人から転身した酒商人で、''Pig's Eye''(豚の目)という異名を持っていた。1820年頃、この地はネイティブ・アメリカン、ヨーロッパ人の入植者、アメリカ人の軍人が混住する、西部開拓時代の辺境の地であった。1820年代前半のこの地は「ピッグズ・アイ・ランディング」(''Pig's Eye Landing'')と呼ばれ、西へと向かう入植者たちの目的地、また重要な交易拠点となっていた。1837年、ヘンリー・スクールクラフトとおよそ200人のダコタ族との間に交わされた条約により、入植者たちにこの地が開かれる一方で、ネイティブ・アメリカンはこの地を追われた〔。この条約が成立すると、東からも移民がこの地にやってきた。 1841年、カトリックのガルティア神父はこの地にセントポール大聖堂を建てた。このとき、ガルティア神父が最も敬う聖人の名を冠したこの大聖堂から名を取り、入植地の名が現在のセントポールに改められた。1847年にはニューヨーク出身のハリエット・ビショップがセントポール初の学校を開校した〔Gilman,Rhonda R. ''The Story of Minnesota's Past''. pp.99-104. Minnesota Historical Society Press. 1989年. Saint Paul, Minnesota. ISBN 0-87351-267-7〕。1856年には、ドイツ系ユダヤ人の開拓者がセントポール初のシナゴーグを設立した〔。 1849年にミネソタ準州が成立すると、翌1850年にはセントポールが準州の州都になった。その後しばらくしてセントピーターに州都を移す法案がミネソタ州議会にて提案・可決され、議長の決定を待つのみとなったが、議長を務めていたジョー・ロレットが法案を持って失踪し、会期終了まで身を隠していたため廃案となり、州都はセントポールにとどまった〔Joe Rolette, Fur Trader and Legislator . ''Trolley Namesakes''. The City of St. Paul.〕。1854年、セントポールは正式な市になった。1858年にはミネソタ州が連邦32番目の州に昇格し、セントポールがその州都になった。 セントポールが通商・交通の中心地となっていった要因のひとつに地理的条件があった。この周辺でのミシシッピ川の両岸には切り立った崖が続く。セントポールはランバーツ・ランディングと呼ばれる、セント・アンソニー滝の約22km下流にある、船をつけることのできる最上流の岸に形成された。セント・アンソニー滝を利用して粉挽き産業が発展していったミネアポリスに対し、セントポールはそういった地形を活かし、当時辺境の地であったミネソタや南北ダコタへの玄関口としての役割を担った。1958年には1,000隻以上の蒸気船が客の乗降や貨物の積降のためにセントポールに停泊した〔。やがてセントポールを拠点としてグレート・ノーザン鉄道やノーザン・パシフィック鉄道〔現在ではグレート・ノーザン鉄道、ノーザン・パシフィック鉄道ともにBNSF鉄道の一部となっている。〕などの鉄道が開通すると、ミネソタと南北ダコタとを分かつレッド川流域へと通ずる道路網が整備されていった。100年以上にわたって、セントポールは辺境の町であり、鉄道の町であった。しかし今日では、セントポールは商業都市として、そして州都としての機能のほうが強い。セントポールは''The Last City of the East''(東部最後の街)と呼ばれている〔Wingerd, Mary Lethert. Separated at Birth: The Sibling Rivalry of Minneapolis and St. Paul . ''OAH Newsletter''. Organization of American Historians.〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「セントポール (ミネソタ州)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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